まだらの日焼け
何年か前に作った帽子です。
丸いトップは今はあまり作りませんので、自分でも新鮮に思います。
催事でこの帽子を気に入って下さったお客さまに、私は正直に「涼しいとは思いますが日除けにはなりません」とお伝えしました。仕方ありません、本当のことですから。
そのお客さま、びっくりしたように目を丸くして、次の瞬間に笑いながら「いろんな模様に日焼けするわね!」とおっしゃってお求め下さいました。
お金を出すお客さまにしてみれば、同じ金額で一番コストパフォーマンスの良い買い物をしたいと思うのは当然。
その場合、「機能性や利便性が高ければ高い」ほど「得な買い物をした」と思われる方が多いような気がします。では機能より美しさやデザインが勝るものは?「使えないな!」と損失の対象になるのかどうか。
私のこの帽子は、洗えないし、たためないし、UVカットも望めない。それなのにお客さまはお求め下さった。
洗えないし、たためないし、UVカットも望めなくても、「私の夏の帽子ってこんなイメージ、どう?素敵だと思わない?」とのこちらの提案に、「いいね!」と共感して下さったから。私の美意識に、そしてそれをご自身が体験されること(=この帽子を被るということ)に対価を出されたのかもしれないと、そんな風にも考えています。
自分で帽子を作って自分の名前で世に出して、しかも自身が販売に立つ。
何のためにそこまでしているのか。そもそも何がしたくてこちら(帽子を作る側)に来たのか。
売るためなのか、儲けるためなのか、自身の感性を貫くためなのか、コミュニケーションを図るためなのか。
それはいつも考えていることです。そしてそれを考えることを忘れてはいけないとも思っています。
今日は少々抽象的でわかりづらい内容になりましたね、ごめんなさい。
私の御帽子の先生へ
素敵な帽子をいつもありがとうございます。
それも、ステキな帽子の伝道師として、かの地へ降り立ち。この様な帽子をいだだける事を感謝しています。
しかし、ラストの五行は沁みます。何のために仕事をするかですね?
食べていく為でもなく、金儲けにもなっておらず、人を雇えば、自分自身が疲れてしまい(これは私)。
生まれ持った業なのか?
なにかに導かれた、ミッションなのか?
考えること多しです。
コロナ元年、これからは全て、前例の無い世界。
何処へ向かってかは、それぞれですが。光りさす場所へ。
私の帽子の伝道師に幸多き前途でありますように
田中さま
ご無沙汰しております。
大変なご時世となりました、お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか。
こちらは静岡行きがなくなり、本当に寂しく思っております。秋に向けて営業しないと!
まだまだ技術も何もかも修行中です。それでもここで強味は何かと問われたら、「美術デザインの畑で培った自身のオリジナリティ」という漠然としたものでしかありません。
巷に五万とあふれる帽子から私の帽子を選んで下さるお客さまに、それ(私の帽子を買うこと)を後悔されることのないよう、では私は何を売るのか。と考えると、それは私とお客さまとの間に交わされる「共感」ではないか。
機能に特化した帽子は山ほどあります。素材開発から手がけるメーカーさんにはかないません。
素晴らしいデザインの帽子もたくさんございます。一流のデザイナー、職人に技に追い付くにはまだまだ研鑽を積まなければ。
となると、私の強味は何だろう?
お客さまは何に魅力を感じて下さるのか?
そこをいつも考えていれば、大幅に道を外れることはないかと思っております。
気さくでおおらかな田中さまにお会いして、元気をいただきたい。
またお会いする日まで、どうぞお身体にお気を付けてお過ごし下さいませ。
あずささんの魅力は、主婦という所にあると私は感じています。
子育てを経験し、主婦としても生きている。だからこそ、見える世界もあるかと思います。
個人的に、主婦業をされている方には安心感を抱きます。視野が広い方が多い印象があるからです。
そして、お帽子は、眺めているだけでも楽しい気持ちにさせてくれたり、元気をもらえたりと、心にも寄り添える存在でもあるかと思います。初めて買った、あずささんのお帽子を見るたびに、楽しくお話しした日を思い出します。
帽子だから被るのが全てではない。まず、見て心に響き、手で命を感じ、共感する。
日常生活でも、やっぱり、選んで髪型やメイクアップなどに合わせて感じる。
世の中にはお帽子が大好きで、飾っている方もいらっしゃるでしょう。被るのが一番帽子としては嬉しいのかもしれませんが、限定品はインテリアとしても命を感じるかもしれませんね。好きなものに囲まれる。そのアイテムが帽子だとしてもおかしくはありません。
ミキさま
ミキさんのメッセージを拝見して、このお話を紹介したくなりました。
陶芸作家の西岡良弘先生、昨年知り合って有難いことに親しくさせていただいております。
非常に美しい器を作られる先生に、陶芸における「オブジェ」をどう思うか訪ねました。
例にあげたのは鈴木治氏。私は鈴木氏の、特に赤土を使った作品を好んでいます。
器を作り上げる西岡先生がもしかしたら「邪道だ」とおっしゃるかと思ったら
「良いですよね、私も好きです」と。
「使えるとか使えないとかではなく、オブジェは見る、という機能を持った作品。器であれオブジェであれ、大事なのは作品として美しいこと、そして飽きられないこと」というようなことをいろいろお話下さいました。
ミキさんがメッセージで伝えて下さったことを重ね合わせて、西岡先生から伺ったことを改めて思い返しています。
今も商品か作品かの間でグラグラ迷うことも多々あります。しかしそもそも一番大切なのは自身が持ち続けている「私の中の何かを表に出したい」という気持ちで、その結果何かしらが出来上がる。そしてそれを美しいとか面白いとか、便利そうとか何だこりゃ?と思うのは見た方の自由。そう考えたら少し気持ちが楽になりました。
そうですね、どうしても正解を求めてしまう気持ちは、私もありますから普通の良くある話しなんだと思います。
でも正解を求めて、果たしてそれは他の人にもかというと、そうではない。
作品というよりも、表現しました。と音楽のような、その時にしか表せない想いはあると思います。
私は、あずささんの、変化していく表現を楽しみにしています。